大林寺の沿革と趨勢の概略

◆創建について/寛永2年(1625年)開基 

高照山 大林寺は浄土宗西山禅林寺派に属する古刹(古い由緒あるお寺)で、創建は、寺伝によると慶長末年(1614)。宇治山田市史によると寛永2年(1625)となってい るが、界隈では最も早い開基となっている。

古市遊郭がここに根をおろし、漸(ようや)く緒についたのは徳川初期のことであり、寛永初期には間の山(あいのやま)の六軒屋と呼ばれたほどの淋しいところであった。しかしその発展はめざましく瞬く間に小市街を形成するに至 った。その頃の娼家は、莚戸(むしろど) 揚蔀(あげしとみ)。竹格子の家作で遊女を艶女(あんにゃ)、仲居を 竃?(がま)と呼んでいた。

◆移建/元禄4年(1691年)

初め岳道(古市町東裏)に建てられたが、元禄4年(1691年)西裏に移建された。元禄時代は開府以来のピークで、古市の基盤はこの時期に完成されました。宝永の名寄せに茶屋60軒、艶女162人とあ る。

◆寛政の全盛

妓楼70軒、茶汲女1,000人の威容は、現実に日本3大遊郭の一つに数えられました。この両側に櫛歯する建築様式は後世のモデルとなった。

かの有名な油屋騒動は、寛政8年5月4日夜更けに起きた。犯人孫福斎は27歳自刃したが、お紺は49歳まで生き延び、文政13年(1830年)江戸4代目阪東彦三郎によって、大林寺寺庭に建碑された。

※『油屋騒動』詳しくはこちらから

 

 

 

◆大林寺焼け

嘉永5年(1852年)6月27日小僧の不始末により出火し、中野地蔵、久世戸、下の町、西裏に延焼し、280戸を焼いた。当時の古市廓の威力は妓楼40軒、茶汲女780人であった。再建は4年後安政3年で高床式のかなり立派なものであったらしい。

 

 

 

 

◆廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

廃仏毀釈とは、明治政府の神道国教化政策に伴う神仏分離思想の中で行われた、仏教排斥運動で、寺堂、仏像、仏具などの破壊が公然と行われた。その結果、寺院は大恐慌を来し、廃寺、復正(ふくしょう)が相次ぎ、明治2年に廃寺、復正されたもの実に160余ヶ寺に及んだ。長峯からも、清涼寺、宗安寺、常明寺、清雲院、などが姿を消し、宇治にはついに人寺も残らなかった。この激しい風潮の中で、時の大林寺の寺僧は、いたずらに時流に恐慌し、自らの手で寺堂を売却破棄して了った。

◆再興

再興は明治27年10月である。この20年余りの無住に近い空間は大きかった。平成10年の改修工事前の本堂はそれから数え108年目である。当時寺庭のきた半分は、修道小学校の占めるところであり、狭隘を囲っていたが、明治41年動向が久世戸町地内移築した機運に乗りその跡地を世話人協力して買収し寺に寄進した。現在修道小の校庭に燦全と緑をたたえる大蘇鉄は、移築と共に移植されたものである。

◆庫裏の移築

明治27年再建時の庫裏は、本堂の南側にあったが、昭和4年に北側に移し、本堂に接続することになり、直ちに工事に着手したが、種々の無理が高じて以後雨漏りに苦しめられることになる。

◆住僧の交替

丁度その工事の真っ最中に、住僧の交替劇が行われた。先住林観準は、老師の死去に伴う名跡を継承することになり、京都地蔵院へ去り、代わって鬼頭闡誠(旧姓福島)が晋山した。

◆「比翼塚(ひよくづか)」

お紺、斎の比翼塚もこのあと、庫裏の移築の跡行われた。斎の碑を宇治今北山墓地の同碑から書写して新調し、関西歌舞伎の雄で貢役として最も定評のあった実川延若を施主として同じく彦三郎のお紺と並べて比翼塚とした。碑前に愛染堂を設置し、賽銭箱を置き、表通りに至るまで関西歌舞伎の名優連寄贈になる行灯を揚げた。

昭和8年には折りよく世界館の来演の実川延若を迎えて盛大な供養式典を行った。

 

◆養老院と桜

市営養老院が山門の北側に建設されたのは、昭和26年である。そして鬼頭夫人が幸運にも、主任介護人として採用されたのである。戦後の廃退した世相に苦しんでいた時だっただけにまさに救いの神だった。
同時に寺庭石崖際に桜の苗木が5本植えられた。これが年々成長し、養老院すでに去った今も、日ちび尾の目を楽しませてくれた。が、昭和34年の伊勢湾台風によりうち3本が枯死した。

 

 

◆現在の住僧への交替

昭和59年10月28日 先住鬼頭闡誠退隠により、玉城町中楽 徳泉寺より山中信雄を迎え晋山した。

◆改修工事

平成9年3月よりより改修工事をはじめ、平成10年5月10日落慶法要が行われる。明治27年来の本格的改修であった。